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第284回見学会「西多摩の国衆の城と“村の城”」(R8.1.18)の報告

戸倉城から眼下の絶景を望む

戸倉城から眼下の絶景を望む

初沢城(椚田城)の遺構を確認

初沢城(椚田城)の遺構を確認

網代城の堀切を見学

網代城の堀切を見学

網代城の本曲輪で記念撮影

網代城の本曲輪で記念撮影


令和8年(2026)1月 18 日に第284回見学会「西多摩の国衆の城と村の城=vを開催しました。見学先は東京都あきる野市の戸倉城と網代城、八王子市の初沢城(椚田城)。
武蔵五日市駅での合流を含めて 20 人が参加し、新春のすがすがしい青空の下で城巡りを満喫。3城の縄張りから読み取れる時代背景や築城主体などについて、15 世紀後半― 16世紀後半の武蔵多摩地方の争乱(享徳の乱、長尾景春の乱、北条氏と両上杉・上杉謙信の抗争)との関係性も絡めて考察しました。いつも通り、市沢さんのバスで午前8時に静岡駅北口を出発。東名高速道路と圏央道を経て午前 10 時半ごろに戸倉城の麓を通る檜原街道の西戸倉バス停に到着し、大手道と推測される神明神社のルートを登りました。
戸倉城は室町時代から戦国時代にかけて、五日市盆地を眼下に望む山頂に築かれた山城。15 世紀ごろに武州南一揆の一員として秋川谷に君臨した小宮氏の本拠地として古くから知られています。天文 15 年(1546)ごろ、北条氏照が大石氏の名跡を継いで滝山城主になると、大石定久の隠居城となったといわれていますが、典拠となった資料の信憑性を疑問視する意見もあるようです。最高所の本曲輪には、枡形虎口を形成していたと推測される2段の腰曲輪があるものの削平は不十分。五日市盆地から都心までを見渡せる眺望は素晴らしく、手軽に登れる里山でもあり、ハイキングやウオーキングの団体でにぎわう中で昼食にしました。その後、西端の曲輪を見学。参考にした縄張図には巨大な竪堀と横堀が記されており、当時の遺構か否かを考察しました。
網代城の築城者も明らかになっていませんが、南一揆に利用され、村人の逃散の場としても利用されたと考えられています。高尾グラウンド方面からアプローチ。山城とは思えないなだらかな坂を登っていくと急斜面の階段が出現しました。どこまでも続く階段に息が上がる中、何度か休憩を挟みながら何とか登りきり城内へ。本曲輪のほかに曲輪らしい曲輪はなく、本曲輪の腰曲輪や竪堀、北側の尾根にある堀切などを見学。相対的に土木量が少なく、技巧的な構えがないことを確認しました。
最後に訪れたのは椚田城とも呼ばれる初沢城。城主に関する明確な伝承は失われていますが、横山党末裔の椚田氏または高乗寺を開基した長井高乗が築城した説が『風土記稿』に記されています。下見でアプローチした別ルートと間違い、道に迷うトラブルが発生したものの城跡南側に位置する住宅街に到着。初沢配水池方面から城跡に入りました。
各所に設けられた堀切や竪堀などを見学。防空施設や水道施設による改変の影響があるのか、判然としない遺構も多く存在していました。
バスの車内ではメイン担当の望月保宏会長から武州南一揆や武蔵西党の小宮氏などについてレクチャーしていただきました。
今回は大規模な備えや技巧的な構造が確認できない3城を訪ねましたが、国衆の城や村の城がどのようなものだったのかを考える上で参考になりました。関東居住の参加者も多く関心の高さが窺えます。このような城にスポットを当てて見学することも古城研究会の活動として意義があるのではないかと思いました。
(報告者:金剌信行)
 

最終更新日:2026-02-10